智慧の見出し方、話し合いの進め方
― 最上について、正しい遍歴、 犀の角、ヴィパッサナなど ―
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ないし
はじめに. 1
スッタニパータ:最上についての八つの詩句 −見解について−. 2
スッタニパータ:死ぬよりも前に −『安らかである』ということ−. 3
スッタニパータ:正しい遍歴. 4
スッタニパータ:犀の角. 6
ヴィパッサナ指導者・関係者からのコメント. 22
法の道をあゆむ. 24
The essence of Dhamma(英文). 25
ヴィパッサナのコースを受けた刑務所の囚人からの手紙(英文). 28
まっとうな意見とは?. 32
無記→なにも答えないということ. 33
無記と毒箭(どくや)の譬喩. 35
はじめに
「みんな自分は正しいと思っている」ということばがネットのどこかにあったと思いますが、自分の考えをまえにだすのではなく、一歩ひかえて正しい道をいかに見出すか、つまりいかに智慧を見出すか、いかに正しい判断を下すか、、というのがここでの問題提起です。
たとえば具代的に、話し合いを進めるときに、戯論におちいらないよう、いったい正しい見方、智慧をどう見出すしていくか、あるいは話し合いでなくてもいろいろな意見考えがあるときに、いかにうまい判断をくだすか、というようなこと、です。
議論するということの意味あい、進め方など、いろいろなコメントをネットなどで見つけ、ここにそれらをまとめておきます。ご参考になれば幸いです。
ところでこの問題は、たとえば母親が自分の安心をほっぽらかして子供のために悩むという場合も含め、維摩の「衆生病む、ゆえに我病む」といった菩薩の働きにつながるように思います。自らの安心の境地に安住せずに、いろいろな考え方の交錯する社会で、状況を見極め、正しい判断をし、法の道を歩み続けるということの重要なことを改めて感じたものです。
― 2008年8月29日 洲崎清記
スッタニパータ:最上についての八つの詩句 −見解について−
796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。
797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。
798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。
802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
スッタニパータ:死ぬよりも前に −『安らかである』ということ−
848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか? ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」
849 師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。
851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。
853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない。
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存の断滅のための妄執も存在しない。
857 諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ<平安なる者>である、とわたしは説く。かれには締めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。
858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特にきにかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。
861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」
スッタニパータ:正しい遍歴
359 「智慧ゆたかに、流れを渡り、彼岸に達し、安全な安らぎを得て、こころ安住した聖者におたずね致します。家から出て諸々の欲望を除いた修行者が、正しく世の中を遍歴するには、どのようにしたらよいのでしょうか。」
360 師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。
361 修行者が、迷いの生活を超越し、理法をさとって、人間及び天界の諸々の享楽に対する貪欲を慎しむならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
362 修行者がかげぐちをやめ、怒りと物惜しみとを捨てて、順逆の念を離れるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
363 好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執著せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
364 かれが、生存を構成する要素のうちに堅固に実体を見出さず、諸々の執著されるものに対する貪欲を慎しみ、こだわることなく、他人に誘かれないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
365 ことばによっても、こころによっても、行為によっても、逆らうことなく、正しく理法を知って、ニルヴァーナの境地をもとめるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
366 修行者が、『かれはわれを拝む』と思って高ぶることなく、罵られても心にふくむことなく、他人から食物を与えられたからとて驕ることがないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
367 修行者が、貪りと迷いの生存(煩悩の)矢を抜いたのであれば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
368 修行者が、自分に適当なことを知り、世の中で何ものをも害うことなく、如実に理法を知っているのであるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
369 かれにとっては、いかなる潜在的妄執も存せず、悪の根が根こそぎにされ、ねがうこともなく、求めることがないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
370 煩悩の汚れはすでに尽き、高慢を断ち、あらゆる貪りの路を超え、みずから制し、安らぎに帰し、こころが安立しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
371 信念あり、学識ある賢者が、究極の境地に至る定まった道を見、諸々の仲間の間にありながら仲間に盲従せず、貪欲と嫌悪と憤怒とを慎しむならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
372 清らかな行いによって煩悩にうち克った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きがなくなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
373 過去及び未来のものに関して(妄りなる)はからいを超え、極めて清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。
374 究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに見て、あらゆる<生存を構成する要素>を滅しつくすが故に、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。」
375 「尊いお方(ブッダ)<さま。まことにこれはそのとおりです。このように生活し、みずから制する修行者は、あらゆる束縛を超えているのです。かれは正しく世の中を遍歴するでしょう。」
スッタニパータ:犀の角
(この部分、私なりにコメントをつけてあります)
35 あらゆる生き物に対して暴力を加えることなく、あらゆる生き物のいずれをも悩ますことなく、また子を欲することなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ一人歩め。
ーー
この一行、ヴィパッサナをすればするほど、身にしみこんでくるようだ。
>あらゆる生き物に対して暴力を加えることなく、あらゆる生き物のいずれをも悩ますことなく、
自分もまわりも平等、同じ生き物・存在、仏性の現れ、と感ずれば感ぜるほど、こうなる。あの鳥(の声)、あるいはこおろぎ(の声)が私と通じるものがあるということ。そこにはハーモニーこそあれ、葛藤はない。May all beings be happy!である。
>また子を欲することなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ一人歩め。
あなたの関係でより多くの楽しみを持ってする方法
釈迦は自分の子、ラーフラ、を出家させた。朋友も同じねらいだろう。そしてそこには、ただひとつ法にそって生きるということ、煩悩・苦を超えて「悟り」に生きるということのみがある。だからまず自分の面倒をしっかり見よ!(→悟りの世界に生きろ)ということだろう。だから、犀の角のようにただ一人歩め、、、である。
これは娑婆の価値観から言えば情け容赦ないところだが自分自身がしっかりしないで何ができるというのか、煩悩を撒き散らすな、じっと一人、修行を進めなさい、ということだろう。
(そう簡単にいかない場合はそれなりに対処はしないといけないのだろうが、それにしても方向付けはしっかり持たないと、いつまでも煮え切らないことになるだろう)
==
36 交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生ずる事を観察して、犀の角のようにただ一人歩め。
ーー
注)交わり:会うこと、声を聞くこと、身体で触れること、おしゃべり、享楽
これは、1)ひとつには、智慧を使って自ら正しく生きられる領域をこの世間に見出しなさい、という風に取っておく。健康なからだなら大丈夫でも、特にまだ自分が病んでいる身(煩悩の根っこがいろいろある)なら、あまり物騒なところには近づかないほうがいい、というようなものだろう。
2)つぎに、、、「愛情」が生ずるは四苦八苦のうち、つまり生老病死、と、、、
愛別離苦(あいべつりく) - 愛するものと分かれなければならない苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎んでいる対象に出会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく) - 欲しいものが得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 心身の機能が活発なため起こる苦しみ
のうちの愛別離苦の愛に対応するとすると、その愛に引っかかる前に、あるいはその「ひっかかる」ときに、無常を観じなさい、あるいは無我の境地をわすれなさんな、、、というようなもの。ただしこれができるには、「鏡の心」が働いてないといかんだろう。
1)と2)とうまくバランスを取って進みなさいといっているようである。
==
37 朋友、親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利をうしなう。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ一人歩め。
ーー
>朋友、親友に憐れみをかけ、心がほだされると
は過剰な憐れみ、、、つまり心の動きはバランスを崩すことになる、平静さを失うことになるということと見る。だから
>おのが利をうしなう。
つまり仏道を、法の道を歩みはずす。
>親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ一人歩め。
だからこの観察の場(視点)を失うなということ。つまり、それはだれにも何にも影響されない、あくまでも犀の角のように確固なものであるべきということだろう。
これは、親しみがないというのでなく、(意識の上では)あっても(根本のところには)ない (つまり一回はしっかり否定する:即非)、というような覚めた境涯とみておく。
これに関して、「来るものは拒まず、去るものは追わず」、という言葉がおもいだされる。
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38 子や妻に対する愛情は、たしかに枝の広く茂った竹が互いにあい絡むようなものである。たけのこが他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ一人歩め。
ーー
引っかかりはいろいろなところにある。
すでに引っかかったものを無力化するということ。大拙の言葉「それはそれとして」というのがポイントをついているではないか。
引っかかりに気づいて智慧をはたらかせよ(→対処しない対処)ということ。
その辺の工夫をちゃんとしていないと、何がなんだかわからなくなる。そうなったら、それは道を見失ったというのとおなじだ。
見失ったものも、そうでないものも、つねに、、、そして、しっかり根本のプロセス(戒定慧)を働かせなければならない。それが法の道を歩むということだろう。(→ 出家:ゼロベースでー引っ掛かりをはなれてー対人関係を(も)見るということ)
==
39 林のなかで縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ一人歩め。
ーー
つまらない引っかかりの状況(煩悩・妄想)に落ち込まないように智慧を使え、という意味あいがあるように思う。小乗は身勝手というような意味あいのことを大乗の人(?!)は言うことがあるようだが、自らのこころが騒がしかったら、大乗なら大乗ということで衆生を助けるというそのアイデア・行為もゆがんだ考えにもとづいているのではないか。だから、そこでいかに智慧をだしてバランスを見出すのか、というのが中道の意味あいと思う。
絶対矛盾の自己同一=中道、ということでもあろう。小乗に対して大乗をいうものはすでにここでいう中道の見方をはなれているといえるのではないか。
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40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
――
出来ることなら、仲間の中におってしかも他人に従属しない独立自由をめざし、、(つまり「引っかからず」に)大慈大悲大智の心をあわらしめたいのである。
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41 仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する愛情は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角ようにただ独り歩め。
――
鏡の心を常に働かせなさい、ということだろう。なにかと引っかかる、というようなこと(煩悩の矢の意味合い)をよく知り、さらさらと、流れる如く道(智慧)を見出していきたいのである。ただし、それがむずかしいなら、そのような状況はあたかも正しく生きるという原点を失うようなものだから、そんなことならそのような係わり合いは絶って犀の角ようにただ独り歩め、ということだ。(目覚めよ!というわけだ)
==
42 四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
――
まさに然り!!!!
ただし独り歩め、、、の意味あいは、形のうえででただ独り、、、というのではなく、そう、形のある坐禅はするなという舎利弗にいった維魔のことばがあるが、、、
身体も心も三界の中に現れないように坐禅すべきものなのです。
煩悩をたたないままでしかも涅槃に入ることにもなる、というように坐禅をしなさい。(大乗仏典。P102)
おなじような意味あいで形にでるような出家(→犀の角のようにただ独り)はするなと言う意味があると見たい。 つまりあくまでもねらいは自ずから然り、無意識の意識、無分別の分別がどうか、ということだ。
だから、「犀の角のようにただ独り歩め。」はいわば心の内的な平静さ+知覚がどうなのか、ということを常に、丁寧に調べ・確認しなさい、といっているようにうけとれるわけだ。
==
43 出家者でありながらなお不満の念を抱いている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少なく、犀の角のようにただ独り歩め。
――
周りはいい。それはそれとして、、だ。
そこで見たこと、感じたことを自らの反省の礎にし、発心、発心、また発心、である。
==
44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家の者のしるしを棄て去って、在家の束縛を断ち切って、健(たけ)き人はただ独り歩め。
――
在家でありながらも在家の束縛を断ち切る、、、、これが出来るように思う。難しいかもしれないが、できると思う。難しいときは線をひいて(→意識を冷凍、といったぐあい)、その線をまたがないように、いじらないように、犀のように、である。
==
45 もしも汝が<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難に打ち勝ち、こころ喜び、気を落ち着かせてかれとともに歩め。
――
もしそういうことが起こったなら、これはまことにありがたいことだ。ただだれしもご同行様という可能性は持っているのだろう!
==
46 しかしもしも汝が<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、譬えば王が制服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
――
そうだ、そうだ。それでないと、例の煩悩の矢と同じ。つまらないところで引っかかってバランスを欠いてしまう。脱落しているならバランスの欠きようがない。
==
47 我らは実に朋友を得る幸せを誉め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近付くべきである。このような朋友を得る事が出来なければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。
――
朋友は、あるいはそこにある本のなかの一言の言葉かも知れない。こっちが気づかないです通りしている、ありがたい言葉かもしれない。か弱いようで力強いもの。大悲大智の働きが見つからないというのはまさにこっちの問題ではないだろうか?
==
48 金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つ腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
――
みごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪、、、はその時と場所を選んで鑑賞すべきだろう。働きはそれこそいろいろな形で現れでるのだ。
==
49 このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起こるであろう。未来にこの恐れがあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。
――
饒舌といさかいとが起こる、、、ような場に入り込まないように気をつけるべきだろう。入り込んでしまったら、そうと知り、平静さを失うことなく、反発することなく、内とそとにおこっていることをただただ知覚しておれ。あるいは、そのままに、しずかにその場をされ。
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50 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱(かくらん)する。欲望の対象にはこの患いのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。
――
いろいろなわなが待っている。わながわなとわかるようならそれはわなじゃない。痛い目にあって、なおも反省なく痛い目にあい続けるなら、これは智慧がない。いろいろなわなを知り、わなから逃れるコツを身につけ、正しい道を進むのだ。
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51 これはわたくしにとって災害であり、腫れ物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
――
人間として持っている無明に目覚めて生きるということ。一体これほど大事な事はあるのだろうか?
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52 寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽のの熱と、虻(あぶ)と蛇と....これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
――
どのように私は私がどのような性格のタイプを見つけるん。
戦いは一人一人がせざるを得ない。いい加減なことではこの戦いに勝つということは出来ないのだ。なにかに頼るということではいかんのだ。名声、財、知、など根本のところではなんの役にもたたない。
==
53 肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群れを離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。
――
戦いに勝ったものは、勝ったと油断はしないながらも平安の時を持つ。
==
54 集会を楽しむ人には、暫時の解脱にいたるべきことわりもない。仏陀の言葉を心がけて、犀の角のようにただ一人歩め。
ーー
状況によって正しく線を引いて、やること、やらざることを見極めるという智慧を働かさないと、道が草ぼうぼうになってみえなくなる。
戒というのは智慧の現われで、ダイナミックに状況判断ができるように、、、というわけだ。例のキャッチー22だ。つまりわかったものはわかるが、わからないものはなんだかわからない。
解脱していれば、いわば自在であり、智慧が働く(準備が整っているから)法の道を歩きやすいということになる。
集会を楽しんで、楽しんでいるということがわかり、覚めているのなら、なすべきことはわかる、というようなものだろう。
*犀の角のはなしは、神秀と慧能の偈が裏表になっているのと似た構造をしているようだ。そしてこれは円環運動、往環の構造、あるいは小乗ー大乗の構造とつながっていると思う。
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55 あいあらそう哲学的見解を超え、(さとりにいたる)決定に達し、道を得ている人は「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って際の角のようにただ一人歩め。
ーー
そう、ふらふらしないわな。プロセス(道の進み方)がわかっているのなら。
智慧の眼をもって人と話し(話す必要がなければ話さず)、お経などを読む(あるいは読まないでもいい)、ということになるね。ただし未熟なものは落とし穴・わな、に気をつけて!だね。
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56 貧ぼることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執の無いものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
ああ、こういう言葉がいわゆるネクター(蜂蜜)を味わうように、おいしく・すっとのみこめるのだね。身について、状況に応じて働きでるというように消化されるのではないかと思う。
お釈迦様の話を聞いた人というのは、きっとそう感じたのだろうな。
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57 義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貧りに耽り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
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智慧を出してなにかいえる、できる、ということもあるかもしれない。でも修行僧はまず自分を救え、というのがこの言葉のねらいだろう。
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58 学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
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これまた智慧・洞察力がないとそういう「高邁・明敏な友」がわかりにくい、という構造になっている。
はやいはなしどこを見ても絶体絶命だ。そこで、、、智慧(+慈悲)を見出して法の道を歩みなさい、ということになる。
そしてその根本はどこにあるかというと、それは戒定慧に行き着くということだ。それを体得する!これは生きるといううえで我々にあたえられているもっとも大事な課題だろう
そういう友と交わることがあっても、この基本のプロセスは自ら見出し、確認しつづけていくしかない。
==
59 世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感じることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
>世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感じることなく、心ひかれることなく、
満足を感じてもさらっと流す、引っかからない。(ヴィパッサナでいえば無意識レベルにおけるセンセーションへの鋭敏な知覚+平静な心)
>身の装飾を離れて、真実を語り、
すべての装飾を落とすということ=我をおとす=真実の姿に置き換わる、ということだろう。
==
60 妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかのあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
修行、、、汝自身を知る、、、というばあい外境にとらわれず、ということになる。内的には、これは自分自身・我もふくめ、すべてを投げ出す、という境地だ。
それ以上は捨てるもののない、楽な境地、つまり無一物中無尽蔵、ではあるが、それがそうなるまで捨てるというのは、煩悩の根っこ=業・サンカラを抜くということにつながり、これは尋常のことではない。
まあ、煩悩(ひっかかり)の種をそこいらじゅうで拾っては捨て、あるいは拾う前に捨て(おっとっと)、という動中の工夫も進めながらていねいに道を歩め、ということだろう。
==
61 「これは執著である。ここには楽しみは少なく、快い味わいも少なくて、苦しみが多い。これは魚を釣る針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。
--
魚を釣る針、はそこいらじゅうにあるね。
智慧を使ってそういう状況に陥らないようにというのがひとつ。
またそういうところに陥ったときには、魚を釣る針を魚を釣る針、と認め、智慧を使ってさっさと動中の工夫で処理する。
さらにすでにサンカラ・心の癖・業として飲み込んだ針は、それを吐き出すように丁寧に工夫するということだろう。
これは犀の角のようにひとりひとりが体得すべき智慧だ。
もちろん体得し、うまく智慧が働いているか丁寧にチェックして道を進めということだ。
==
62 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
煩悩の結び目はなかなか解けない。解こうとばたばたすると帰って硬くなるということもある。だからあせらず急がず犀の角のようにこつこつと工夫を進めなければ成らない。解けたとおもっていたらまた絡まっていたということもある。
工夫がうまくいったら、またわなにはまらないよう、わなに戻らないようにこれまた気をつけなさいということだね。
==
63 伏して視、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころの護り(慎み)、(煩悩の)流れ出ることもなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
>諸々の感官を防いで守り
これが鍵だね。これができてないと、とめどなくうろつくこと、になる。
ヴィパッサナでいうと「鋭敏な知覚と平静な心」をもてということになる。
これは犀の角のようにひとりひとりがやらねばならない(修証しなければならない)ことだ。
==
64 葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるし除き去って、出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
>出家して袈裟の衣をまとい、
はまあシンボル的な意味あいとして、、、
>在家者の諸々のしるし除き去って
は在家・出家と言う「形」は関係なく、、、>犀の角のようにただ独り歩め、と、とことん法の道を歩めということ。
「袈裟の衣」は、法の衣、といった感じでうけとれるだろう。だからつまらない世間のとらわれに引っかからないように常に智慧を使って法の道を歩め、ということだろう。
出家でも大変なのに在家なら更に大変。ちゃんと分をわきまえて、、、智慧を働かせて行きたいものである。
==
65 諸々の味を貧ることなく、えり好みをすることなく、他人を養うことなく、戸ごとにに食を乞い、家に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
>諸々の味を貧ることなく、えり好みをすることなく、家に心をつなぐことなく
はわかる。けれど、、、
>他人を養うことなく、戸ごとにに食を乞い、
で出家して自分を養えないというのはどうもピンとこない。
そこで百丈の「一日作さざれば一日食わず。」と臨済の「随所に主と作れば、立所皆真なり」と言う言葉が思い浮かぶ。
ねらいは自在と自給自足。人には迷惑をかけない、いわんや、人に手助けできればすべし、と言う風にみたい。
ただし、形がどうのこうの、というのでなく修行を積むことによって状況によって智慧がで、判断が正しくなるというのがもともとのポイントと思う。
==
66 こころの五つの覆いを断ち切って、すべてに付随して起こる悪しき悩み(随煩悩)を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過ちを絶ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
>なにものかにたよることなく
いわば智慧は自ず然りで見出されるということだろうな。
つまり戒定慧のプロセスと同じようなものとみられる。(ここでは定慧→戒。。)
==
67 以前に経験した楽しみと苦しみとをなげうち、また快さと憂いをなげうって、清らかな平静と安いを得て、犀の角のようにただ独り歩め。
--
まあ、すべてをなげうつ、、、のだろうな。
引っかかりは、引っかかっていたら、引っかかりのままだ。
生き生きと生きるということは、、、
お荷物をしょっていたら、、、できないね。
さらさらさらさら、
こつこつこつこつ、
たんたんたんたん。
完全燃焼ということ=ゼロベース(今ここ)に生きるということ。
(生命の)燃焼は今・ここでしかできないからこの二つは一つのことを二つに分けてみているといえる。
また、シンプルライフ(重荷をしょわない透明な生き方)というのもこれに絡む(→完全燃焼がしやすい)し全機現も同じポイントをみているようだ。
畢竟、目覚めているということが完全燃焼(智慧がでる)につながるのだが、シンプルライフで余計なものを担がない、、、、つまり、出家あるいは犀の角のいき方、、、というのは、やはりその「純粋」なところをみているのであろう。
==
68 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具なえ、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
発心、発心、また発心、だね。
つねに、つねに、だ。
刻々刻々、
こつこつこつこつ。
たんたんたんたん。
感謝、祈り、感謝、祈り!
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69 独坐と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
おっとっとがわかれば、、、
そしてそのとき(苦集滅道で、煩悩を滅しさる)智慧の働きが現われ出るのがわかれば、やはり、、、余計なことはせずに、
たんたんたんたんと法の道を歩むという風になるのではないかな。
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70 妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明かに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
妄執の消滅を求めて、→まずは妄執に気づくということ
怠らず、明敏であって、→鋭敏な知覚と平静なこころをもつ
学ぶこと深く、→いろいろな角度からチェックとバランス
こころをとどめ、理法を明かに知り、→何度でも、何度でも確認し
自制し、→慢心をもたないで
努力して、→こつこつこつこつ
犀の角のようにただ独り歩め。
==
71 音声に驚かない獅子のように、網に捉えられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
これはまた、鏡の心で、「ひっかからない」という意味あいだ。
たんたんたんたん
こつこつこつこつ。
来るものは拒まず、去るものは追わず!
涅槃寂静、、、、!
==
エリザベスは、それらは私の靴です。
72 歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。
坐臥に親しんで、何もしないでただ何がそこに起こっているかを観ると、、、不思議に出会うということ、、、そして感謝、祈り、の念が起こること、これまた不思議なものだ。
(もちろん、坐臥でなくてもいい)
==
73 慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
>慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、
いろいろなポイントを修証し、、、
>世間すべてに背くことなく、
出家と在家の中道、、、といった意味かな。
>犀の角のようにただ独り歩め
歩むのは、そして修証するのは一人一人がするしかないのだ。
。。
慈しみ、平静、あわれみ、解脱、喜び。。。。。。。。。。。。
この辺の働きを日々に現成し、チェックして、、、
つまり修証しながら進みたいのだ。
==
74 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
>貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、
つまり、智慧を働かせ、
>結び目を破り、
身心の隔てを取るということ、無意識を意識するということ。サンカラ、業の働きを取り去るということ。重荷を担がないということ。
>命の失うのを恐れることなく、
恐れるのはそれとして、こころはそれにとらわれないということだろう。
つまり恐れても恐れない。
>犀の角のようにただ独り歩め。
たんたんたんたん、
こつこつこつこつ。
==
75 今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
ーー
耳の痛いことばだな。
自利利他といきたいものだ。
それができないなら、いろいろ工夫・修行を進めながらも、、、
犀の角のようにただ独り歩もう。
ヴィパッサナ指導者・関係者からのコメント
いろいろ比較して結論を出そうと急がない方がよいのです。世の中のいろいろな問題についても、ひとつの立場で見るときだけは結論が出るのです。問題を、あらゆる立場で見られるようになると、簡単に決めつけることはむずかしいと、おわかりになると思います。あらゆる立場で見られるようになるということは、あいまいな人間になるということではなく、ものごとを深く、幅広く見る人間になるということです。これは正しい、これは間違っているなど、単純に考える人々には、ものごとは正しく見えていません。そのような人々は、自分の意見にとらわれ他人にそれを押しつけたりし、自分だけではなく他人を不幸にしてしまいます。結論というのは、その人の意見にすぎないのです。ものごとについての正しい結論は 「真理」であって、人によって変わるものではないのです。人々は、意見にとらわれ言い争いして苦しんでいる、智慧の人は、どんな意見にもとらわれないで心の平安を楽しむのだというのが、お釈迦さまの考え方です。
−スマナサーラ氏
「自分で分析しようというのも、ずるい働きになってしまうのでよくありません。 「分析しよう」 という気持には 「私」 というものがずるく隠れているのです。そしてまた、分析すると何か見えてくるだろうと、何かわかってくるだろうと思ってしまうと、そこにも 「私」 というものが隠れているのです。
言いたいのは、「強引に何かを引き出そうとしないこと」。 強引に引き出そうとすると、「私が」 という、「自分が」 というものが出てきます。そうなると必ず、「客観的に」見るということから離れていってしまうのです」
−スマナサーラ氏
皆がリアル(現実)でないもの、妄想でしかないものを現実と捉えて行動してしまう。でも実際に行動してしまいますから、「この野郎」って殴ったら、それはリアル(現実)です。そこから新たな憎しみとかが生まれてくる。何の根拠もない所にそういうものが生まれて来てしまう。それだから、皆絡み合っているのです。世界の政治状況の現状も、もう複雑に絡み合っているからいかにも解けそうにないのだけれど、その最初の原因を探って行けば、私が言ったような所にしかないのです。
だからそこを押さえない限り、いくら平和運動をやってもきりがないのです。良かれと思ったことで、泥沼状態になって行く。それは最初のポイントを押さえていないからです。物事の最初の始まりとは、"妄想にしかすぎないものをリアルとして受け止めている"それだけなのです。
−山下良道氏
解脱(煩悩、妄想から自在になる)ということは、実際のプラクティス(修行の実践)によって得られるものであり、それは討論によって得られるものではない。
すべての生きとし生けるものが幸福でありますように、平和でありますように、自由になりますように。
−ゴエンカ氏
法の道をあゆむ
心が清らかになって日常の行動にそれが現れるとき、はじめて法が働いているのであって、単に法についての話をするということがあってもその法を日常にあらわしめないのならそれはどんな意味があるのか? たとえば、怒りを感じて自分自身が悲惨な想いをし、いらいら、落ち着きないのに時間を無駄に使って法を論じるというのにどんな意味があるか?
―ゴエンカ氏
自分の欲にできるだけとらわれないかどうか?ということで、これはおさらいになりますが以下は十地経を読むというファイルに載せたもの(十悪)の抜粋です。( )
�in the tradition of Sayagyi U Ba Khin using video/audio tapes with the help of assistant teacher and support people who volunteered to help conduct this course.
The letters quoted here from Rick to Jonathan was taken from p.186-190 of the book, letter from Dhamma Brothers, by Jenny Phillips (Pariyatti Press-2008)
July 26, 2006
I think/feel/perceive/intuit/experience Vipassana as... practical way of staying touch with the here and now. Vipassana does away with the intellectual and leaves thought alone. With the focus on breath and sensation one doesn't get caught up in the gimmicks of therapies. The passive awareness of an objective mind is critical to the here and now. By sitting daily morning and night the mind becomes purer by nature and "who I am" appears. Down deep all of us are kind, loving people who have a lot to give. Life has so much negativity in it, not in and of itself, but it's the energies we are exposed to.
Most therapies are like religions in the methodology. Because of all the "stuff' we have pushed down and down into our subconscious minds, we end up feeling like we are in a nightmare of which there is no awakening. Therapy and religions give people tools to do change in the dreamscape and alter the nightmare into a happier dream. It's like software that goes with a computer-instead of Microsoft, it's Dreamsoft-and has windows as well. Windows within windows. Of all the dream scenarios that one can conceive just like a computer game, all the moves are in the program chip.
So in the end, we go through one dream after another and we think we are awake. We are just trading dreams, we change the names, but the dynamics stay the same - mere role playing on a healthier level. TThere are rewards to better dreams and roles. But one is still co-dependent. You have the craving, the aversion, the lack of genuine awareness. A million ways to play it all out - one might say a lifetime. One can dream or be awake ... the Buddha recognized the endless cycle and how desire played into it. Vipassana goes back to a science of mind where thought and the thinker become one - subjec/object ceases. Vipassana leaves the practitioner witness to the movement of life and doesn't attempt to make life anything other than "what is."
What is just is; it doesn't care one way or the other. There's no comparison in it. It just is. No need to "compete," bargain, coerce oneself in any way. One sensation is no different from the other - only in our mind. As the mind becomes still, it is creative. It flows... purer the mind the lack of possessing.
In silence the mind naturally turns within to observe its own nature. We fear silence. Seeing this is the beginning of freedom. Liberation to self-examine.
To understand Vipassana, we have to go back to "intent" - why am I practicing Vipassana? Is it a doing? Or is it a be-ing? To purify the mind is a "cleansing" - I don't really have to go anywhere.
Vipassana doesn't teach me what the Unverse is; it shows me "how" it works. Just being with the breath/sensation I am connected. Not to a philosophy, an idea, a concept, a tool. I am related to life right here, right now. Vipassana keeps me from the rational mind - I don't need to think about what I'm doing. The "monkey mind" will chatter ... that's its nature. Below that is a deeper mind, the mind is like an ocean. On the surface, a lot of activity - the deeper you go toward the ocean's floor - the deeper the movement. When oxygen comes from the floor of the ocean you can't see it - it is so compressed; as it arrives at the surface all that changes.
Sankharas (conditioned mental reactions) go down into our mind and become hidden to us but have direct effects on our lives. We are a microcosm of the universe "literally."
Vipassana allows me to observe that I am attached to individual objects, property and people and [therefore] cannot experience the oneness of metta. The universal love of creation.
In the end, Vipassana can only be experienced. We can't experience it vicariously through another. We have to be it ourselves!
Before Vipassana, the closest I came to purifying the mind was with the practice of Tai Chi and the Tao philosophy by Lao Tzu, which also goes back to the time of the birth of Vipassana through the Buddha.
Sitting in Vipassana practice is deeper because of the lack of physical movement. I experience harmony through Tai Chi and the Tao, but not "liberation." Vipassana takes all the toys away
from the mind and leaves us with observing "energy" - what is energy before we name it? Where does it go? How does it change?
The observation of sensation - a God insight - the missing link - the place where all other techniques drop the ball. What causes a sensation? To track the craving/aversion cycle.
The daily practice of a pure technique like Vipassana brings clarity to life's little/big problems and you realize, "there are no problems apart from the mind" like J. Krishnamurthi once said. We are making all of it up.
Vipassana gives me peace. Life is hilarious! The freedom to laugh at my own pettiness and peculiar habits and idiosyncrasies and not take everything so personal. What a boon!
In my job description, my personal daily practice of Vipassana gives me consistency and endurance and stamina toward all the people and events that could be overwhelming if not seen objectively. It gives me practice with my students, friends and family and peers all day long every day. I need thal. It helps.
Well, Jonathan, thanks for the words of encouragement and for the contribution of you toward my practice of Vipassana
Rick
August 9, 2006 (continued)
In my last letter I shared the gains from Vipassana but I left out something. Nothing I have experienced in the Vipassana practice needs more mention than the basic contact with "gratitude" I discovered so unconsciously that you almost overlook it. The silent joy you experience being connected to the source [when you meditate] two times a day. No matter what arises, the being grounded in the silent joy of absolute gratitude is a "safe-haven" for mankind. I can't fix all this stuff (out there). However, I can observe my body's reaction to it through sensation. I can passively become aware of the craving for moreness, the accumulation of stuff and/or the aversion to stuff I've named bad/negative/not comfortable, etc., etc. I do not have to have social status whatsoever to be rich, wealthy, and empowered through the objective awareness of the mind. Peace. It was in the last place I thought to look. Imagind that? Exactly, imagination has a tendency to move one away from peace. What happens when we stop doing? What is left?
No peace without gratitude. Tears flow down your face and you don't "know" why or even care. It just happens. It's beautiful to live, to love (metta), to experience silent joy. What a gift. The gift of highest to the highest. A process absent of subject/object. It's why we can't explain Vipassana. Only practice introduces the truth. The purity. The real essence. My oasis.
Blessing and metta to you and our Dhamma family!...
Rick
--
Additional quotes from Rick's letter - July 26, 2006 (P.186):
"you must love yourself." Vipassana allows me to love myself and then I can care for others from the core of that love - at the end of practice you are ready to send metta to the universe and its inhabitants.
...
Whether you are in prison or in the free world there is no difference in the "mind." The names are just names, just symbols laying on top of sensations ... energy and matter.
Rick Smith
*上で大悲(Metta)についての大変すばらしい記述がありますが、思い出すのは、ある老師は死刑の是非について、被害者がかわいそうだから、、、死刑あるべしという意味あいのことをいっており、大変残念におもったものです。(この話はこれに関する大拙の話も含め
の最初のほうに入ってます。
自分を救うというところに目が向いていると大悲に気づかないということなのかもしれません。
ところで、これに関して、ヴィパッサナと小乗・テーラバータをくっつける見方があるかもしれませんが、このMetta・大悲そしてゴエンカ氏のコース・教え・行動などを知ると、すくなくとも、そういうわけ方は当たってないと思うものです)
==
まっとうな意見とは?
ある人からある話題に関してこういう意見がありました。
>これま、まっとうな意見を見つけてしまった。
>すざきさん、ごまかさないでくださいね。
それに対する私の回答は以下のものでした:
その意見をまっとう、と判断されたのはXXさんでしょうし
意見を述べた人というのは、普通まっとうと思って意見を述べているでしょう、
ただしすべての意見がみな、まっとうかどうか、というのは
それとは別の話で、いろいろな解釈、判断、もととなる情報の良否、
さらにそのほかいろいろな要素がからまって出来あがるものと思います。
もちろん、これはあたりまえのことですが、私はその辺のいろいろな状況を考慮をして、私のベストと思われる判断を下させていただきます。つまり、たとえばはなしがややこしくなりそう、あるいははなしがつたわるかどうかわからない、などと判断して回答しないということもありますので、その辺よろしくご了解お願いします。
もちろんそういう判断を下すという、その判断が間違っているかもしれませんが、それは私のほうの問題ですので、まわりにご迷惑をかけていない限りにおいては、沈黙を保つということについてはお許し願いします。もちろん、何かのきっかけで智慧が働いて、たとえば何か回答するということはあるかもしれませんが、それは今考えてもしょうがないということです。
、、ということで、こたえられないなら黙っているということになりますがこれは釈迦の無記というのにもつながるところのようでもあります。
無記→なにも答えないということ
そこでネットでしらべると「無記」は岩波仏教辞典にはこうあるそうです:
回答されないこと、あるいは説明されないこと。ゴータマ・ブッダ(※釈迦)によって捨て置かれ、回答されることがなかった、ある種の形而上学的な主張ないし問いをさす。〈捨置記(しゃちき)〉ともいう。すなわち、
@ 世界は常住(※永遠)であるか?無常であるか?
A 世界は有限であるか?無限であるか?
B 霊魂と身体とは同一であるか?別異であるか?
C 如来は死後に存在するのか?存在しないのか?存在しかつ非存在であるのか?存在もせず非存在でもないのか?
という4種類、10項目の主張ないし問いである。
ブッダは不回答の理由を、これらは「無益で、法に適合せず、・・・涅槃に導かないから」であると説明する。
また、区別されないこと、の意。あらゆるものを倫理的観点から善・悪、および善とも悪とも区別されないものの三者に分ける場合の、第三の善・悪に区別されないものを〈無記〉という。
――
ここで:
「ブッダは不回答の理由を、これらは「無益で、法に適合せず、・・・涅槃に導かないから」であると説明する。」
、、というところは大事なところで、常に、常に心すべきところと思うものです。つまり、根本は何かというと、そこでの話が何であれ、状況がなんであれ、その時に我々のなすことが法にそっているか、正理にあっているかどうかを知る(→「智慧」を出せ)ということが鍵ということでしょう。
それで回答するのかしないのか、と気づくのに智慧がいるわけですが、そうでなく心のつまらない癖とか我の働きにまかせ、すぐさま反応・反発するというのでは法、正理に会ってない、智慧がないということでしょう。(→これが慧能のいう定慧の構造につながるとみます)
ただ智慧がでないならそれはそれとして、、、ということで、間違ったことをしてその後始末に苦労する、あるいは業のお荷物を背負い込むぐらいなら、いっそ馬鹿になってのほほんとしていたほうが、自他に迷惑もかけないし、どれだけいいかもしれないということじゃあないかと思います。
ちなみに釈迦の無回答の理由ついて阿含経典の「毒箭(どくや)の譬喩」にはこうあります:
「なにゆえ説かないのであるか。実にそれは、道理の把握に役立たず、正道の実践に役立たず、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たぬからである。」
以下↓参考のために全文をコピーしておきます:
無記と毒箭(どくや)の譬喩
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)の祇園精舎にあられた。
その時、ひとり離れて瞑想静坐していたマールンクヤ(摩羅迦)比丘は、心の中でかように思った。
「世尊は、このような問題については説かず、捨ておきて、問えば答えることを拒む。
すなわち、世界は常住であるか、無常であるか。
世界は辺際(かぎり)があるか、辺際がないか。
霊魂と身体とは同じであるか、別であるか。
人は死後も存するか、存せぬか。
このような問題について、世尊は、なにごとも説いて下さらぬ。
わたしはそれが不満であって、堪えられない。
そうだ、わたしはいま世尊のもとに行き、その解釈を問おう。
もし世尊がいぜんとして説かれないならば、わたしは修学の業をすてて、世俗に還ろう。」
そこで彼は、沈黙瞑想の坐をたって世尊のもとにゆき、世尊を拝して言った。
「世尊よ、わたしはひとり遠きに離れ坐しているとき、心の中でかように思った。
世尊は、世界の常・無常、世界の有辺・無辺等の問題については、何ごとも説かれず、問えば答えを拒まれる。
わたしはそれが不満であって、堪えられない。
いまわたしは、重ねて問い申す。
それでも答えられぬならば、わたしは修学をすてて、世俗に還るのほかはない。
世尊よ、もし世界は常住なりと知らば、かく説かれよ。
もし世界は無常なりを知らば、かく説かれよ。
もしまた、世界は常住とも無常とも知らぬならば、予は知らぬと説かれるのが正当である」
二
世尊は言った。
「マールンクヤよ、わたしはかつて、なんじに、かような問題について説いてやるから、わたしのもとに来って清浄行を修するがよいと言ったことがあろうか。」
彼は答えて言った。
「世尊は、そのようには申されなかった。」
そこで世尊は、彼のために、このように説かれた。
「では、マールンクヤよ、なんじは誰であって、誰に対して不満を述べようとするのであるか。
マールンクヤよ、ここに人あって、かような問題について、わたしが語るまでは、わたしのもとで清浄の行を修しないと言ったとするがよい。
そのとき、もしわたしがそれについて語らなかったならば、彼はついに清浄の行を修する機会なくして命終わるであろう。
マールンクヤよ、さらに、人あって、毒箭をもって射られたとするがよい。
彼の親友たちは、彼のために医者を迎えるであろう。
だが彼は、わたしを射た人はどのような人であるか。
わたしを射た弓はいかなる弓であるか。
わたしを傷つけた箭は、その簳(やがら)はいかに、その羽はいかに、その尖端はどのような形をしているか。
それらのことが知られぬうちは、この箭を抜いてはならぬ、と言ったとするがよい。
マールンクヤよ、もしそうすると、彼はそれらのことを知ることを得ずして、命終わるであろう。
マールンクヤよ、世界は常住であるとか、また無常であるとかの見解があっても、清浄の行が成る道理はない。
むしろ、それらの見解があるところには、いぜんとして、生老病死、愁悲苦悩がとどまり存するであろう。
わたしは、この現在の生存において、それらを征服することを教えるのである。
その故に、マールンクヤよ、わたしの説かないことは、説かれぬままに受持せねばならぬ。
わたしの説いたことは、説かれたままに受持せねばならぬ。
マールンクヤよ、世界の常・無常、有辺・無辺などのことは、わたしはこれを説かない。
なにゆえ説かないのであるか。
実にそれは、道理の把握に役立たず、正道の実践に役立たず、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たぬからである。
その故に、わたしは説かないのである。
マールンクヤよ、それでは、わたしの説いたものとは何であるか。
『これは苦である』とわたしは説いた。
『これは苦の集起(おこり)である』とわたしは説いた。
『これは苦の滅である』とわたしは説いた。
また『これは苦の滅にいたる道である』とわたしは説いた。
ではなにゆえにわたしは、それらのことを説いたのであろうか。
実にそれは、道理の把握をもたらし、正道の実践に基礎をあたえ、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立つからである。
マールンクヤよ、その故に、わたしの説かないことは、説かれぬままに受持するがよい。
わたしの説いたことは、説かれたままに受持するがよい。」
世尊はかく説かれた。
マールンクヤは歓喜して、世尊の教えを信受した。
(「阿含経典による仏教の根本聖典」P236〜P239 増谷文雄編)
*ただし、話はここで終わらずに、その信受したというものをあらわしめる、というのが鍵であるということだ。またここの話のもとには智慧の働きに付いての深い洞察とその実践(修証)があり、いうならば、そういった全体像を「つかみ」日々の行動に「あらわしめる」というのが大事だと思う。
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it
ないし
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